「てんてんしましまを探して」第16回・水玉研究所 レポート 「水玉」という名前の由来を探るvol.2「結局 目立つ柄だった」
「てんてんしましまを探して」は、毎週木曜正午更新。
てんてん(水玉)しましま(ボーダー&ストライプ)のかわいいアイテム、そこに携わる人々の思いをバッグブランドSaori Mochizukiのデザイナー・望月沙織がつづります。企画詳細についてはこちらをご覧ください。
「てんてんしましまを探して」第16回・水玉研究所 レポート 「水玉」という名前の由来を探るvol.2「結局 目立つ柄だった」
日本の水玉について色々調べてみると、どんなルートからせめても、この時代の陣羽織に行き着きます。
陣羽織は戦国時代に生まれたものだそうで、戦場で武士が鎧の上にコートのように着たものです。・・・ということは、戦国時代よりも前の合戦では、武士は陣羽織は着てなかったの??と、とても気になり、代々の合戦図をたどってみたくなったのですが、それは少々水玉研究所の本筋からはそれてしまうので、しばらく脇に置いておくことにします。
で、閑話休題。
そもそも陣羽織は、武士(特に大将)が戦場で自分の存在をアピールしたり、相手を威嚇するために着ることが主な目的だったので、柄には目立つもの、視認性が良いものが好まれました。
そこから転じて、「陣羽織=派手であるべし」という図式が成立したのか、戦国時代を下って江戸時代に入ってからも、ド派手な陣羽織が作られています。
そのうちの1つが、「樺色羅紗地水玉文様陣羽織」で、これは白河(福島県)藩主、阿部家の藩祖、忠秋(1602~75)が、1633年に行われた徳川家光のとあるイベント(「馬揃え」という、優秀な馬を集めて品評会をする行事だったそうです)の際に着用したものと言い伝えられています。
「樺色羅紗地水玉文様陣羽織」白川集古苑 蔵
これはわたくしもびっくりのデザイン。相当人目をひいたことと思います。
このように、水玉は目立つにはうってつけの柄でした。地色と玉の色をはっきりと変えればコントラストを際立たせることができますし、リズミカルに同じパターンを並べれば、柄が目に残りやすく、注意を引きやすくもなります。もちろん、玉のサイズを大きくすればそれだけでも目立ちます。
その辺りが戦国武将には好まれたということでしょうか。
そして水玉は、安土桃山時代の南蛮貿易を通して日本に伝来したという説があります。おそらくそれ以前にも水玉に近い模様はあったと思うのですが、先日も説明した通り、古来日本では丸のことを「星(曜)」と呼んでいた風習があり、その存在をいわゆる「水玉柄」として認識していなかったと思われます。
とはいえ、それがどういう形で海外から伝わってきたのか、というかそもそも本当に海外から伝わってきた結果、「水玉」となったのか、またもし伝わってきたものだとして、どうして「水玉」と呼ばれるに至ったのか、そこはまだはっきりしません。
伊達政宗しかり、阿部家しかり、どうやら東北の方がきな臭いので、まずはそちらへ脚を運んで見たいと思っておりますが、さて時間をひねり出せるでしょうか(いやひねり出すべきなんですがー!)。
という訳で引続き調査を進めたいと思います。レポートの続きをお楽しみにー!
バッグデザイナー&水玉研究家・望月沙織/Saori Mochizuki
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